出典:たびらい
上野原遺跡
「上野原遺跡」は昭和61年(1986)に工業団地の造成中に発見され、平成4年(1992)から発掘調査が行われている。日本最古で最大級の規模を誇る縄文遺跡で、霧島連山を望む標高250メートル余りの高台にあり、約9500年前のムラ(村)といわれる。52の竪穴住居群を中心に、39の集石や16の連穴土坑などの調理施設も発見された。落とし穴を利用して動物を追い込む深さ2~3メートル・長さ約400メートルの狩り場や、食物の貯蔵穴なども見つかっており、遺跡の一部は国の史跡に指定されている。
鉄砲伝来
天文12年(1543)、種子島に1隻の中国船が漂着した。領主の種子島氏は、便乗したポルトガル人が持っていた鉄砲(火縄銃)に着目し、操作法と製造法を含めて金2000両で鉄砲を購入した。島の鍛冶たちによって国産初の鉄砲が完成すると、瞬く間に全国へと広がり、大阪の堺などでも造られるように。当時は「種子島」と呼ばれ、戦国大名の主要な武器となった。
ザビエルによるキリスト教伝来
鉄砲伝来から6年後の天文18年(1549)、スペインの宣教師フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教のため、薩摩のヤジローの案内で鹿児島に上陸した。ザビエルは領主の島津貴久と会見し、布教の許可を得た。これが日本でキリスト教が広まる第一歩となる。しかし、ポルトガル船が平戸(長崎県)などの港に来航するようになると、貴久は領内の布教を禁止し、ザビエルは1年足らずで鹿児島を去った。その後は平戸や島原、山口などを訪れて伝道を続け、天文21年(1552)に中国へと渡るが、病気になり他界(享年46)。鹿児島市内にはザビエル上陸400年を記念して造られた「ザビエル公園」があり、キリスト教伝来の地碑やザビエル滞鹿記念碑などがある。
琉球出兵
慶長7年(1602)、仙台藩の領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命により、何のとがめもなく船は琉球へ送還。その後、薩摩を介して家康への謝恩が繰り返し要求されたが、琉球はこれに応じなかった。これが発端となり、薩摩藩主の島津家久から琉球征伐の命を受けた樺山久高(かばやまひさたか)は、約3000の兵を率いて80隻余りの軍船で琉球へ向け出港。鉄砲隊を中心とした薩摩軍は、奄美大島、徳之島、沖永良部島の島々を次々と攻略し、琉球に上陸した。琉球軍の抵抗もむなしく、軍事力で上回る薩摩軍の勢いに1週間ほどで降伏し、薩摩藩の服属となった。
サツマイモ伝来
サツマイモの原産地は中南米といわれ、アメリカからヨーロッパ、さらにインドや東南アジアへと伝わり、16世紀後半には中国や琉球に渡来した。薩摩本土に伝わったのは宝永2年(1705)といわれ、現在の指宿市山川で船乗りをしていた前田利右衛門が琉球から唐イモを持ち帰り、自ら栽培方法を見出して薩摩に広めたという。ほかの説としては、島津藩の琉球出兵の際に将兵が持ち帰った、島津藩主が琉球にイモを求め家老に栽培させた、などがある。指宿市の特光神社(とっこうじんじゃ)は前田利右衛門を祭神とし、境内には“さつまいも発祥の地”の碑が立っている。サツマイモは享保17年(1732)の大飢饉をきっかけに、蘭学者で“イモ先生”と呼ばれた青木昆陽(あおきこんよう)によって、救荒作物として薩摩から全国へと広まっていった。
西郷隆盛
西郷隆盛は、文政10年(1827)12月7日、薩摩藩の下級武士・西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれる。通称は吉之助、号は南洲(なんしゅう)。薩摩11代藩主の島津斉彬(なりあきら)に才能を見出され、幕末から維新にかけて活躍。戊辰戦争では江戸城の無血開城を実現させ、明治政府の樹立に貢献。新政府の陸軍大将や参議を務めるが、征韓論に敗れて官職を辞し帰郷。鹿児島に設立した私学校の生徒が西郷を擁して西南戦争を起こすが、政府軍に敗れ、明治20年(1877)にカビ島の城山で自刃した。鹿児島市や霧島市、沖永良部島の和泊町のほか、東京の上野公園にも銅像が立っている。
大久保利光
幕末の薩摩藩士であり、大久保利通の実兄である。父・大久保利世は藩の下級役人で、利光はその長男として生まれた。家計は苦しく、利光は若くして家族を支える役割を担うこととなった。政治の表舞台に出ることは少なかったが、家族内では精神的支柱として、弟・利通の人格形成や行動に大きな影響を与えたとされる。学問を重んじ、誠実で堅実な性格であったと言われており、大久保家の内にあっては、静かでありながらも確かな存在感を放っていた人物である。維新後も政治的な役割を担うことはなく、表立った功績は少ないが、維新の原動力となった弟を陰から支えた存在として、その重要性は見過ごすべきではない。
島津斉彬
薩摩藩第11代藩主であり、幕末の日本における近代化の先駆者である。1809年に生まれ、藩主となったのは1841年。当時の日本は列強の圧力にさらされつつあり、斉彬はこれに強い危機感を抱いた。彼は西洋の科学技術を積極的に導入し、集成館事業を起こして洋式船や兵器、紡績機械の製造などを進めた。さらに、人材育成にも力を入れ、西郷隆盛や大久保利通といった後の維新の志士たちを登用した。将軍継嗣問題では一橋慶喜を推し、幕政にも影響を与えたが、1858年に急死する。その死には毒殺説もあり、藩内外に大きな波紋を広げた。斉彬の近代化政策と開明的な思想は、明治維新の礎を築いた大きな要因であり、その業績は極めて大きい。
調所広郷
薩摩藩の家老として財政再建に尽力した人物である。1776年に生まれ、1838年に家老に就任すると、当時破綻寸前であった藩の財政を立て直すための大胆な政策を実行した。数百万両にのぼる借金を、江戸の商人たちと強引に交渉して帳消しにし、加えて琉球王国を経由した清国との密貿易により莫大な収益を上げた。これにより藩の財政は急速に好転したが、その一方で幕府の規制を無視した違法行為も含まれていた。やがて密貿易の実態が幕府に知られると、調所は責任をとって1849年に自害した。斉彬の近代化政策は、彼が築いた財政的基盤なしには実現し得なかったとされ、調所の功績は現在も高く評価されている。
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